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心理学実験のスクーリングでは、心が感覚に作用しているという実験を行いました。それで、ちょっとそれに関するような実体験をお話したいと思います。感覚と言うのは、それを察知する感覚器と脳との連絡によって、認知されます。そのメカニズムについて語ると、一晩くらいかかってしまいそうなので、それには触れずに(実はほんとうのところはあまり理解していない。w)感覚と心についてお話したいと思います。

昨日、わたしはコップの中のミルクティーを飲みました。いつもは、ブリックパックごとに飲むので、
ミルクティーをコップから飲むということをしていないわたしは、それが麦茶だとおもって口に運びました。ミルクティーと麦茶は色が違いますが、暗い中でパソコンを操作していたので、色も見分けられなかったのです。(そんなくらいところで・・・・とお叱りをうけるかもしれませんが。)

口に入れたとたん、「うっ!」と叫んでしまいました。そのミルクティーが腐っているわけではありません。でも、今まで飲んだことないようなとても異様な味に感じました。麦茶だと思って飲んだら、いつも飲みなれているおいしいミルクティーが、ミルクティーに感じられなかったのです。

日常生活を細かく見ていると、こんな経験をされている方は他にもいるのではないでしょうか?
次に、ミルクティーだと思ってもうひとくち口に入れたら、このときは、この飲み物はミルクティーの味がしました。不思議ですよね。

人の舌には、味覚があります。舌の奥のほうは甘味、苦味、酸味、塩味、うまみを感じる「みらい」という味の受容器が集まっています。舌の先っちょのほうは甘みを、酸味は舌の側端、苦味は舌の比較的奥のほうで感じます。不思議なことに味覚を感じる味覚線維は舌の先っちょから2/3までに分布しています。たぶん、喉の奥に入る前に、危険物を察知できるようになっているのだと思います。
だから、苦いお薬を飲むときは、味覚を感じないのどの奥のほうにいれると苦い思いをしないで済みます。予備知識はこのくらいにして本題に入ります。

舌の味覚の働きがちゃんとあるのですから、甘いものは甘いものに、にがいものはにがいものに感じるはずです。麦茶と思って飲んでも、ミルクティーをのんだら、解剖生理学的にいえば、甘くておいしいミルクティーと認識されてもおかしくないのです。でも、思い込んで飲んだら、すごい味がしたのです。ミルクティーでもなく、麦茶でもないこの異質な味は、こころと感覚が競合しているのだと思います。
こんなこころと感覚の競合は探してみると生活の中にたくさんあると思います。こころと感覚の競合で人はストレスにさらされるのではないかとも感じました。

こころと感覚の不思議。
「嬉しい」「悲しい」だけが心の仕事ではないのだなあと改めて痛感される出来事でした。



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通信制大学心理学専攻の一番の山場。心理学実験実習が終わりました。本来なら、もっとたくさんの実験を経験しなければならないのだと思いますが、通信制という制限もあり、最低限、4日間のスクーリングでめいいっぱい実習をすることで免除されるのだろうと思います。
 それにしても、中身の濃いスクーリングでした。400メートルを一気に全力疾走したような気分です。心理学実験を指導のもと、いくつか体験し、その中からグループで課題をひとつ選びプレゼンテーションを行いました。プレゼンテーションは、グループワークです。どれを課題として選ぶからはじまって、考察をお互いに持ち寄り、レジュメつくりからパワーポイント作成、発表原稿までの過程を約1日足らずで仕上げました。(というか、仕上げるのが課題だった・・・汗)グループメンバーは、いきなりあったばかりの人間たちの寄り集まりだったのですが、適材適所と申しますか、ほんとうによくそれぞれが機能したとおもいます。人望もあり生き様も熱いリーダーをはじめ、冷静に状況判断していたサブ・リーダー、もくもくと自分の仕事に徹していたスタッフ(?)の皆様、誰がやるのか?と押し付けあいたいような考察のたたき上げをひとりでやっていた某氏。お疲れ様でした。^^というか、「わたしはいったいなにやってたんだ?」と振り返ると、たいしたことはなんもしてなかったような気がして、ちょっと恐縮気味です。w
また、各指導教員の方々にも感謝です。プレゼンの仕方と題して、各実験の最後に何度もレポートの書き方を指導してくださったのは、実験の成果うんぬんより、まずは、自分の行った実験の論文を仕上げるために必要な最低限の作法を叩き込むためだったのだと思います。総評で「みなさんが、これだけちゃんと形式にそってできるとは思わなかった。さすが心理学実験の初級をクリアした人たちです。」と代表の先生が褒めてくださいましたが、これこそ、今回のスクーリングでの収穫だとおもいます。
ありがとうございました。^^




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がんばってレポートを仕上げています。昨年、生理人類士2級の試験に合格したのですが、その受験資格である履修科目の履修が昨年滞ってしまい、単位が取れませんでした。今年の7月までにその単位を取得しなければ、合格が取り消しになってしまいます。残ってしまった科目はなんと4科目。
一つはレポート科目で前年度にレポートそのものは合格していましたが、最後の単位認定試験をうけるのをすっかり忘れてしまっていました。(レポートを出し終えたので、ほっとしてしまったのだと思います。)1教科はテスト科目。残りの2教科はいずれもレポート科目です。のこった単位認定テストとテスト科目は、4月中になんとかクリアしたのですが、レポート科目がとてもしんどいです。レポート科目のうちの一つは、まったく最初からの提出ですので、返却されてから即日にレポートを出さねば7月中に単位をとることができません。とても苦しいです。。。。今回のレポートはあせっているだけに返却されてくるレポートには、誤字・脱字のコメントがいくつもありました。自分が読んでも気がつかないところに人の目は留まるようです。提出前に、レポートに目を通してもらうことにしました。見せたときは、「ここが読みにくい」とか、「へんな表現」とか言われて、見てもらっているくせに、ちょっと腹も立ちますが、そこは「がまん・がまん」。誤字・脱字のないレポートを目指します!^^
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しばらく更新していませんでした。今年はちょっとがんばります。w
結局のところ、仕事のほうで新しい役割が増えたり、趣味に没頭したりして、昨年は勉強のほうにあまり関心を持てませんでした。いままで欲張りすぎたのかもしれません。気がついたら、バーンアウト状態になり、持続した気持ちを持つことができなかったことが、学習が進まなかった原因のように思えます。そして、完全主義。これがいちばん履修が遠のく原因だったようにおもいました。ちゃんと理解できていないうちはレポートを書かない、書けない。書いても、自分が納得できる内容でないと提出できない。時間がちゃんと取れないと集中できない。などなど。

昨年はある意味、いろいろな寄り道をしたことで、そんな気持ちから脱却することができました。最初の年は、高得点を取ることにこだわっていたのだと思います。いまは、60点取れば、合格なのだから、70点取れれば「すごい!」と自分にOKサインを出してあげようと思うようになりました。すべてのことにこだわるのは疲れます。自分のなかでの、「これだけは」というものだけ、特別にがんばればいいのでは?という気持ちになりました。自分の世界を広げるために、そして、自分自身が、その学問を楽しむために履修をしているのだからという気持ちをもってできるのは、わたしには、社会人としての生活の基盤がすでにあるからだと思います。そして、ここ数年で何かを達成することにとらわれていた気持ちも、80才まで生きられるとしたら、あと半分もあるじゃないかというきもちになりました。
今年は、欲張らず、最低限度の単位だけを取得して、あとはじぶんの好きなものに対して、いろいろな形で接することができたらとおもっています。のんきさが学習をうまく進めるコツなのだということを1年かけて知ったわたしでした。^^
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まいりました。履修がぜんぜんすすみません。仕事がえらく忙しく、夜勤ばかりの毎日であります。夜勤の入りの日はどうしても昼間寝なくては持ちませんし、そして明けの日は寝ないと頭がぼーっとしてしまいます。となると、休みの日くらいしか、学習できないのに、休みくらい自分の好きなことをしていたいよう〜という心の叫びをとめられません。とりあえず、大学で行われる特別講義だけは今月2回行くことにしました。「初心をとりもどせ〜」と大学からのメールマガジンで先生からのメッセージが。うん。たるんでるのは私だけでないという安心感。いや、引き締めなくてはなりません。
がんばれ〜w(自分へのエール)
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なんと、一科目のメディア授業の半分を一日でクリアしました。忙しい日々はなんら変わらないのですが、メディアを別の方法で活用することにしました。実は私はラジオを聴くのが好きで、車で通勤中によくラジオを聴いています。普段聞きなれているせいか、ラジオの内容は印象的であれば、たいてい覚えていることに着目しました。メディア授業はパソコンに先生が写り、話しているのを、スピーカーで聞くのですが、「なにも、先生の顔を見ながら聞かなくともいいのでは?」と思い立ちました。放送大学にも、ラジオの講座があるのを思い出しました。洗濯物をたたみながら、そして、部屋の片づけをしながら、ラジオを聴くように、メディア授業を受けてみました。もちろん、皿洗いなどの音のでる仕事はできません。パソコンより遠いところにあるお風呂洗いもできません。でも、近くで音量を大きくして作業していると、まるで、ラジオを聴いているように学習できました。もちろん、授業の資料は近くにおいての作業です。マルチな方でないと、なかなか難しいとは思いますが、もともと、主婦と仕事を両立している人などは、結構一度に2つのことも3つのことも一緒にやる癖がついているのではないでしょうか?勤勉な方でなくとも、この方法が適している人がいると思います。ゲームをしながらテレビを見れる人などです。そして、音で聞いていると、印象に残る話だけが、頭の中に残っています。要点をつかむにもいいような気がしています。忙しいひとにお勧めしたいメディア授業の受け方です。(あんまり、薦めてもいけないか?w)
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とうとう11月が近づいてきました。このところ、仕事が忙しく、残念なことに卒論どころではなくなってしまいました。といいながら、日々の忙しさにかまけて逃げているだけなのかもしれません。メディア授業も4科目を取ったのはいいけれど、まだ、一つの科目の半分しか見ていません。メディアでは、ある程度の単元ごとでしか、巻き戻しや早送りができないので、途中でやめてしまうと、その続きから見ることはできません。よって、眠い目をこすりながらきりのいいところまで見続けなければならないのです。当然、頭の中には入ってきません。(とほほメディア授業を受けて思ったのですが、やっぱり、好きになれる先生と、そうでない先生というのがおり、ただ、見ているだけなのですが、先生の言い回しが気に入らないとか、逆にこういう話し方っていいなとか、いろいろ感じるんですよね。それも、向こうからの一方的なアクションだけですので、偏見がいったん成立すると、なかなか自分の中でそれを修正することが難しいと感じています。テレビならば、気に入らない番組は、チャンネルを変えることができますが、メディア授業ではそうはいきません。いやなので、細切れにちびちび見ていると、頭の中の知識の連鎖も悪くなります。結果、ただ「見てるだけ〜」を脱出することができません。

とはいっても、1月で今年の履修が終了してしまいます。お金を余分に出しているメディア授業や、すでにレポートを出している科目は、なんとか履修し終えないとと、あせっています。
あと3ヶ月はわき目も振らず、学習に専念します。(というか、したいです。w)
2007.08.22 Book end
心理学を変えた40の研究―心理学の“常識”はこうして生まれた心理学を変えた40の研究―心理学の“常識”はこうして生まれた
(2007/05/16)
ロジャー R.ホック、

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 この本で選抜された研究は心理学の基礎の教科書にでてくる研究ばかりなのですが、教科書では得られない内容が満載です。研究者がこの研究に取り組んだ背景の詳細、どうしてそのような仮説がたてたのか?、実験結果と、その結果によって起こった心理学の議論と最近の研究の動向まで網羅していることです。これは、何が明らかになって、なにがまだ謎に包まれているのかを知るためにも役に立ちます。
 各研究につけられた題目も、人の興味を引く題目であり、訳者のセンスには、脱帽です。各研究の末尾には、その分野の研究に関する文献が網羅されており、興味を持った人が照会しやすくなっています。(英文論文)研究テーマが見つからない人や、自分の興味を引くものを探したい人は、読まれてみることをお勧めします。
 編集者の「前書き」には選定した研究の選定理由や実験の倫理的配慮の問題にもわかりやすく触れてあり、この「前書き」は必読です。訳者のコメントでは、この本を手にしたあらゆる対象の人に対して、どうやってこの本を読んだらいいかのアドバイスもしてくれています。まずは、最初の「前書き」から訳者のことばまでを読んでください。心理学部や心理学専攻分野への進学を希望されている方は、自分の頭のなかの心理学のイメージと、心理学の実際とのギャップを埋めてくれるものでもあります。「心理学を学びたいけれど。。。」と漠然と思っている人にもお勧めです。
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 きのう、大学の卒業論文履修の説明会と、今年卒業論文を履修されている方の卒論の中間発表が行われました。今年はスクーリングにいっていない私にとって、久しぶりの大学訪問でした。学校を訪問すると、なんだか、だれていた気持ちが引き締まる感じがします。レポートだけでなく、日常の生活やほかに興味のあることに夢中なって、履修があまり進んでいない私にとって、とてもいい刺激になりました。心理学を学びたい意気込みに奮闘していた大学入学当初を思い出しました。また、この中だるみやほかの事に夢中になったり、仕事の課題に追われて大学のログインページを開くことがめっきり少なくなるかもしれません。そしたら、時間を作って大学にいってみることで、モチベーションをあげることができそうな気がしています。
 さて、卒論履修を目指して説明会を聞きにいった私ですが、困ったことに気づいてしまいました。これまで、心理学の基礎を学習してきて、興味のある分野はいくつか見つかったのですが、卒論に適したテーマでどうしても自分が明らかにしたいと思うテーマがないことです。取り組みたいとずっと思っていたテーマはあるのですが、対象がナイーブな存在のため、倫理的な配慮が今の私ではきちんとできないことも、ひとつの理由ではあります。そのテーマでの文献研究も考えました。文献を読み込んでいくうちに、取り組むべき問題の結論は出たのですが、今後この研究を続けていくためには、そのフィールドに踏み込まねばならない時がきます。そのときにのわたしは、はたして、わたしはこの倫理的問題をクリアーできる立場にあるのか?そのためにできることのひとつは、その分野のネットワークを自分で確立しなければならないことだと考えています。ネットワーク作りは徐々にはじめていましたが、傍観者の立場を脱することができません。「人の心の心理学ですから。人と出会わないことには始まらない。」とコメントされた先生の言葉が、ぐるぐると頭の中を回っていました。
 人に接する仕事をしながら、実のところ、わたしは自分から踏み込んでいくことが苦手なのかもしれないと思いました。今後のために、自分のやりたいテーマから外れて、量的研究の仕方を学ぶために別なテーマで卒論をとも考えました。しかし、説明会の先生からのお話を聞いて、そんなあいまいな気持ちではとうてい計画書すらちゃんと読んでもらえないような気がしています。申請まで、2ヶ月しかありません。そんな自分にちゃんと向き合わないとと思った一日でした。

2007.08.21 レポート地獄
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今年履修登録した科目がほとんどレポート科目なので、「レポート地獄」に陥っています。今年提出しなければならないレポートの総数は、なんと27課題!(はあ。。)前年度はレポートが返却されるのを待ち遠しい気持ちで次の課題に取り組んだ余裕(?)があったのですが、今年は、レポートを出しても出しても、次の課題がいくらでもあるので、「もう、返ってきたの??」というくらい、レポート返却がとても早く感じます。
 今年のレポート課題は去年のレポート課題とは書く意味合いが違うように感じています。去年は理論立てて書く練習をしたといった感じを受けましたが、今年は、課題の制限字数が800〜2000字と少なく、学習で得た知見や考えたことをいかに少ない字数で要約して表現できるかに挑戦しているように感じています。要約は、その課題テーマの要点がちゃんと理解できていないと書けないことに気づかされます。800字までの少ない字数で書くときなどは、気をつけないとキーワードの羅列や説明だけで終わってしまったり、参考文献を読まないと、教科書の大事な部分を抜書きしただけの文章になってしまいがちです。そして、短く要約するためには、参考文献や教科書に書いてあることを少しでも短く表現しなければなりません。文章を別のもっと短い言葉に置き換えられないか?はたまた、このキーワードの言葉は本当にこのレポートに必要か?など、文章を作ることをとても考えさせられます。少ない文字数でも、その中で理論展開ができていなければ、いったい何が言いたいのかわからないレポートになってしまいます。
 最初は、「課題数は多いけれど、文字数が少ないから楽そう^^」と考えていたわたし。いま、レポート地獄に陥っています。w
2007.06.27 メディア授業
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今年は勤務の都合でまとまった休みが取れそうにありませんでした。スクーリングに行けそうになかったのでメディア授業を3科目取りました。申し込み・入金確認が済んで、メディアが見れるようになりました。コンテンツがいくつもあって、全部見切れるのだろうかというのが、最初の感想でした。結果的には、同じ時間を費やさないと単位を取れないことを考えると、無理してもスクーリングをとったほうが良かったかな?とも思います。4日間のスクーリングの内容が全て自宅でメディアで受けられるのは魅力ですが、それだけに、見る時間も同じだけ取られます。メディアだと、いつでも見れるという安心感があり、つい、ちょっとみてはやめて、ちょっとみてはやめてを繰り返しています。ある程度まとめて一気にメディア授業を受けないと身につかない感じも受けました。メディアそのものの質は悪くないので、キチンと計画的に見ていけば、理解できるのかもしれません。やはり、ここでも、自制心(自律心?)が要求されます。
2007.05.08 Bookend
広げる知の世界―大学でのまなびのレッスン広げる知の世界―大学でのまなびのレッスン
(2005/06)
北尾 謙治石川 有香

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 この本は、これから大学に入ろうとしている人や入学したての人に役に立つ本です。 有志の大学教授たちのいままでの臨床経験(合計200年!)から作られた文章からは、学生に対しての大学でこういう考え方を学んでほしい・こういう学習を積んでほしいという願いが伝わってきます。高校までの受験対策的な学習であった受け身的な学習から、能動的な学習へが求められる大学での学びは、学生にとってある意味、カルチャーショックです。この本はそんなカルチャーショックを乗り越えていくためのガイダンスになりそうです。添付のCDには、ノートの取り方の実戦ができるメディアや、あふれる情報を整理するためのエクササイズ、テキストでは簡単にしか触れられていない、クリティカル・シンキング(論理的かつ構造的に考えること)に関してのコラムが充実しています。通信制大学生なので教授からの直接的なレクチャーを受けれないことをこころもとないと思っている人や、今一度、自分の大学での学びを整理したい人にもお勧めの本です。
2007.04.29 履修計画
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今年の履修が始まりました。今年はレポート科目が7科目あります。レポート科目はたいてい4つのレポートを書くことになっていて、そのあとに単位認定試験があります。レポート科目の困難さは、レポートを書きあげることもさることながら、レポートを提出してからその採点・返却を待たねばならないことです。その間一か月。4つのレポートがあるということは、一つの科目のレポートがすべて終了するには少なくとも5か月かかるということです。そんなレポート科目が7つあるのですから、少しづつレポート作成日程をずらしていかなくては全部終了することは不可能です。レポートを書くためにはそこそこそのテーマについての知識がないと書けませんし、その知識を頭に詰めこむ作業も必要です。これはもう、苦行と言えるでしょう。(笑)
 わたしは今年も履修計画を立てました。フリーソフトの工程表を使って、レポート提出期限を設けました。「いついつまでにこれを書きあげる」といった具体的な目標ができれば、何とか走れます。去年はこれに大変お世話になりました。科目別にホルダーを作り、そのなかにひとつひとつのテストやレポートごとに完了チェックを入れられるようにしました。先が見えないと、途方にくれます。この工程表を、そこそこ忠実に守っていられれば、なんとかなるという安心感もありました。私が使っている工程表は、「To Do Chart」です。作者は松本 要さんです。
↓下記からダウンロードできます。
http://www.tcp-ip.or.jp/~mt2knm/etc/tools.html
2007.04.02 study English
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 3月に入ってから、英語の学習をはじめました。論文を原著で読めるようになりたいと思ったのが動機です。今年度の大学の履修が始まる前に英語を学習するということを習慣付けておくことが必要だと私は感じていました。いままでも、英国に関心があったので、スクールで英会話を習ったり、昔、受験対策のために英語の塾に通った経験はあるのですが、英国への旅行が終わり、受験が終わるとすっかり熱が冷めてしまって、その後はすっかり英語とご無沙汰な生活を送っていました。自己流で勉強しようと購入した、たくさんの英語の文法や長文読解の本がずらりと本棚に並んでいます。しかし、どれとして理解し読破したものはありません。何か目的がないと走れない自分の性格をしみじみと感じました。(とほほ

 今回は論文を原著で読みたいという目的ができたので、またわたしは走り出すことにしました。reading スキルを上げたいので、またまたスクールに通うことにしました。S.R.Sという公文式のspeed reading systemの教室があると聞いて、体験入学しました。易しい文をフレーズごとに読む訓練をし、知らない単語がたくさんあっても、重要な単語をピックアップできる能力を身につけ、その重要な単語から何を言わんとしているのかを推測して読んでいくという方法で学習をします。いわゆる拾い読みとでもいうのでしょうか。長文を読んだ後に、要旨がわからないと解けないいくつかの質問があり、それにこたえていきます。何問正解したかはさほど問題ではなく、1分間に何word読めたかを重要視します。はじめは80word/分しか読めなかったのですが、一か月過ぎた後は、250word/分を読めるようになりました。問題の正解率が悪いと、とても気持ちが悪い感じがしたのですが、どんどん読んでいくうちに特別な英単語学習をしなくとも、単語とその単語がどのように使われるものなのかを覚えられるようになりました。このsystemは通信制で受けることもできるのですが、こればっかりは、教室に通ってよかったと思っています。一日の学習が終わった後、リアルタイムで先生からのコメントがもらえるというのはとても励みになります。

 このsystemで長文読解をしていて気がついたことがあります。「モノを知っている」ということがとても役に立つということです。単語の拾い読みをしただけで、こういうことが書かれているんだなと想像するには、自分がどれだけ「物知り」なのかにかかっています。
時節の事柄を知り、語り継がれてきた著名な物語を読むことによってさまざまな文化や習慣を知ることが言語を学ぶことにも役だっていくのだなあと感じています。
2007.02.20 Bookend
死生学がわかる。 死生学がわかる。
(2000/06)
朝日新聞社
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 最近、死生学に関心を持っています。本当は死に対する学問なのですが、日本では死だけを取り上げるストレートな言い方を避けて「死生学」というのだそうです。内科の急性期病棟で看護師をしている私にとって、人の死との遭遇はほかの職業を生業としている人に比べて、とても多いと思います。でも、仕事としてのターミナルケアへの関心はあっても、死そのものに対して考えることはあまりなかったように思います。 私が死に対して関心を持つようになったのは、あるエピソードから来ています。それは子どもの死です。無事に生まれることのなかった子どもの死でした。その子どもの死から4年たった今も、その死について心を奪われしまうときがあります。子どもを亡くした時は、それなりに悲しく、つらい思いもしましたが、いちばんわたしが考えさせられたことは、人の死がこんなにもずっと人の心にとどまるものなのかということでした。それまでのわたしは、ある意味、人の「死」を経験していなかったのだろうとも思いました。

 患者さんがお亡くなりになるときには医師が死亡確認をします。死亡診断書に書かれる時間は、死の確徴といわれる瞳孔散大・呼吸停止・心拍停止の状態になった実際の時間ではなく、ご家族がいらっしゃる場合、そのご家族が到着されてから、それを医師とともに一緒に確認した時の時刻となります。ある職場で、ご家族が到着される前に死亡確認された例があり、それが問題となったケースがありました。
 なぜ、問題になったのでしょうか?それはその人の死を単なる「生体の死」とみなしてしまったことにあります。その人の死は誰にとっての死なのかということに立ち会った人々が思いを馳せれなかったということに尽きると思います。もちろん、死はその人本人のものであると思います。と同時に、その人がいなければ、その人と関わらねば存在しえなかった人達のものであるとわたしは思いました。
 生体移植のための脳死の問題、安楽死の問題、倫理的な側面からさまざまな検討が行われています。その倫理とは知なる人間としての倫理だけでは語れないと思います。そのことをこの本は教えてくれます。


 先日、大学の生涯教育セミナーで「思春期のこころ」という講座を受講しました。この講座を受講したのには2つに理由がありました。講師が去年の夏にスクーリングでお世話になった先生だったということと、私自身がいま、思春期の子供を抱えていて、思春期の壁をうまく越えられない母親(思春期とは子どもだけでなく親も越えていかねばならない壁のように感じています。)としての自分にエールを送るためでした。この講座で学習したことのなかで印象の残ったことをいくつかご紹介したいと思います。
 
 思春期とは、疾風怒濤の時代だといわれています。それは、身体的・社会的・心理的の3つの側面の変化に適応するための多大なるエネルギーが必要だからだそうです。第2次性徴と呼ばれる身体的な発達は、発達加速現象とよばれ、明治時代に比べると現代では4年早いとされています。中学生からは電車料金も大人料金が取られ、刑事責任は14歳に法改正されました。「今がよければそれでいい」的な考え方から、自分と他者と比較したり、理想の自分と今の自分とを比較して、自分についてあれこれ考える時期に突入します。ここで面白い話を聞きました。人類学者のマーガレット・ミードがサモア諸島で調査したところ、この国の若者には思春期というものがないことから、この思春期というものは先進国に特有の現象であるということを報告したのです。また、昔は元服などのここまではこどもでここからは大人であることを自分にも世間にも知らしめる通過儀礼というものがあり、中途半端な時期はなかったので思春期はなかったといわれています。ですから、この思春期という現象は最近のものだと言われているそうです。これらの話は、子どもが母親と自分・家族と自分から離れて、社会にいきる自分を意識していく時期だということを反映しているのではないかと思いました。
 
 この悩み多き思春期に親はどう対応したらよいのかというのがわたしの最大の関心ごとであります。思春期の親子関係には反発型と一卵性型の2種類に分かれるそうです。反発型とはお互いが距離を置いていお互いのことに関心を持たないタイプ、一卵性型はべったりと心理的にもくっついて親が子どもを抱え込み子どももそれを受け入れるタイプ。私達親子の場合は反発型です。子どもに目を向ければ子どもの欠点だけが目につき、喧嘩に発展してしまいます。ですから、自分の関心を他に向けることで衝突をさけるのです。うちの場合、子どもも摩擦を避ける傾向があるため、親に何かを求めて挑んでくるということがありません。喧嘩はしなくていいのですが、このたくさんの人の中で2つとない親子であるという感覚に乏しいのです。
 
 どこまでも平行線な関係をなんとかしたいと思い切って先生に質問しました。「反発型の打開策は?」タイミングをつかんでがっつり言うことだそうです。タイミングをつかむということは、常に相手を観察していなければなりません。目を離さず手を離すというのはこのようなことをいうのでしょうか?ちょっとした配慮で、アンビバレントな心を傷つけずに促していく方法はないものだろうか?
 
 ちょっとやってみました。うちの子は時間が自由な塾に通っているのですが、家に私がいないせいもあって、気がつくと寝てしまい塾に行くことができません。そうしているうちに塾にいける時間が過ぎてしまうのです。塾をやめたいとはいいだしません。「その塾に行かなければ自分はまったく勉強しないだろう。」と言い放ったので、子どもはその塾に行ったほうがいいだろうとは思っていると思われます。
 ある塾のある日、家に帰ると案の定、こたつの中でうとうとしている子どもがいました。いつもは「塾は?」とたたき起して逆切れされていました。その日は、ただ、現在時間だけを言いました。「今、7時だよ。」逆切れもせず、子どもはすごすごとこたつから這い出して塾に向かいました。私の言葉に逆切れせずに塾にいったのはこの時が初めてでした。子どもにとって「塾は?」と聞くことは、塾に行かない自分を責める言葉に聞こえていたのでしょうか?自分でもわかっているのに人に指摘される「今やろうと思ったのに・・・」の気持だったのか。時間を伝えて、何をするべきかは本人に委ねたことがよかったのでしょうか?

我が家の思春期はまだ始まったばかりです。(とほほ
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先日、大学の卒業研究をした方の口頭試問の見学をさせていただきました。テーマはいろいろあって、人の興味というのはいろいろな方向に向くのだなあと感心してしまいました。見学者にはレジュメが配られませんでした。各発表者が15分間の卒論に対するプレゼンテーションを行いました。プレゼンテーションの仕方でずいぶん印象が変わることを感じました。この見学で学んだことを3つあげたいと思います。一つ目は研究の目的がはっきりしており、研究することに何らかの意味が見出せること=研究にセールスポイントがあるということです。自分の自己満足のための研究では意味がないということだと思います。2つ目は要因の分析を十分にして本当に知りたいことが測れているのか、そして自分のとった研究対象となるもの(サンプル)は、それを測れる対象であるのかどうかを吟味する必要性があるということです。研究の妥当性というのはこういうことなのだと思いました。3つ目は、研究では仮説を立てますが、その仮説を論証できるかということでした。たぶんこうなるだろうという自分のなかでの憶測だけで研究するのと、仮説の背景がはっきりしているのとではのちの考察に差が出てくるように感じました。そういう考察ができてはじめて今後の課題というものが導かれていくように感じられました。この3つの点は、論文を書くときに読む論文のHOW TO本には必ず指摘される点です。でも、それを実際に成し得るのはとても大変なことなんだなあと思い知らされました。はたして私に書けるだろうか・・・・。(/_;)
ともあれ、卒業研究を終了された方、お疲れ様でした。^^
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あけましておめでとうございます。もう鏡開きですね。早いものです。
新しい年になにか新しい決意をと思っているのですが、これという決意が見当たらないままお正月も終わりました。昨年は履修を済ませることに夢中になってしまいました。ただノルマをこなしたとでもいうのでしょうか?今年はもうちょっと余裕をもって広く学習したいなとぼんやりおもっています。そして困ったことに、最近、本を途中まで読んでそのあとつぎつぎと目新しい本を読み出すという悪い癖がついてしまいました。資料をさっと読みして必要かどうかを判断することをしていたためそういう癖がついてしまったのか、それとも細切れで読むのが?インターネットを通しての情報が多く、学習に役立つと聞けば飛びついてしまうことを繰り返したせいでしょうか。そうやって読んだものは頭のなかを通り抜けていって何も残らないことを痛感しています。ひとつのことにじっくり取り組むということを大事にしたいなと思っています。
2006.11.18 Bookend
事例に学ぶ心理学者のための研究倫理 事例に学ぶ心理学者のための研究倫理
日本パーソナリティ心理学会 (2005/07)
ナカニシヤ出版
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とりえず今年の履修を終えて、今は再来年に持ち越そうと考えている卒業研究のテーマの分野についての下調べを始めているところです。
 今年は本当にたくさんの心理学に関する本を読みました。その中でわたしが一番心理学を学んだなと感じられた本は、「事例に学ぶ 心理学者のための研究倫理」でした。どんな倫理的配慮が欠けていてトラブルになるのかを示した事例がたくさん紹介されています。「〜が知りたいから」という探究心(好奇心?)の名目のもとに協力者の心をどんなに傷つけ、そして研究者自身もどんなに悩むのか。目的はよい研究をすることだけれども、よい研究への追求が倫理問題を生じさせてしまう可能性があること、その解決の手だては十分に研究の手段やプロセスの吟味をすることだということを身をもって知れる本です。心理学研究の限界とその限界をいかに倫理的な配慮によって広げていけるのかを検討している本でもあります。


先月末で登録した単位を全部取得しました。ずいぶん夢中になってやったけれどもそのわりには身についてないような気もしています。通信制だと、多くの科目がテキストを読んで覚えて練習問題をするというパターンなので、ただ興味のある分野の本を読んでいるのとおなじような感覚にとらわれていました。しかし、学習が進んでいくうちに、「あ、これは別の科目で習った!」とか、前に学習した科目ではさらっとした説明でよく理解できなかったことが別の科目では重点的に書かれていて、わかるようになったとか、ジグゾーパズルのピースがだんだんつながってきて、頭の中での関連づけができてくる感覚を久々に体験しました。
 レポート科目では、論文の書き方をみっちり仕込まれました。論文調に書くことなんて、看護研究に携わったとき以来なので、レポートの書き方なる本をしこたま読みました。いろいろよんでみたけれど書いてあることは要約するとみな同じで、そして、いろいろ読んでも、自分のレポートの書き方は自分なりのくせがあって、そのくせを評価者がどうみるかで採点がかわってくるような感じを受けました。独創的な展開を繰り広げてよしとする科目もあり、独創的な発想は認めるがキーワードに欠けていて、学習した内容が大学の意図したものかの判定がつかないと判断されたものもあり、一回目のレポートを出したところで評価者の反応を見るということも覚えました。他の大学の心理学専攻の学生で「この学問はかけだしが勝負だ。」といっているひとがいました。わたしは最初の意気込みのまま暗闇の中に突っ込んでいくかたちをとって、履修を終えましたが、自分の究めて学習したい課題はまだおぼろげです。心理学の基礎を学び終えた今、本当にわたしが知りたいことはなんなんだろうとまた迷路の中に飛び込んでしまったようです。